とあるゴリラの備忘録

某大学18卒でコンサル就職予定のゴリラが色々と書き綴っていきます。お手柔らかにお願いします。

最近の「差別反対」について思うこと

 

最近よく目にする「差別」という言葉。男女差別、人種差別を始め、ニュースの話題にならない日は無いように感じています。そんな中最近思うのが、「差別反対の動きが敏感かつ過激すぎるのでは」ということ。人種差別とはほとんど無縁の日本で、男として生まれてきた私は、もちろん差別を受けた経験はないので、差別反対をする側の気持ちを正確に理解することはできないですが、第三者目線から見て感じたことをまとめていきたいと思います。

 

そもそも差別の定義とは?

 

 

「差別」をウィキペディアで調べてみると、

特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為

という定義が書かれており、さらに、国際連合では、

差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為

と定義づけられています。

 

このような定義を見ると、男女差別の場合では、男が女に対してだけでなく、女が男に対してでも差別になるということがわかります。しかし、よくニュースなどで取り上げられる差別問題を見ていると、力ある者(男や白人)が力ない者(女や黒人)に対するものが差別というように、差別に関して限定的なイメージしかないように感じてしまいます。

 

もちろん、そのような差別の形が世界中で多いから、知る回数が多いだけなのかもしれませんが、あまりにも反対の現象、つまり、女が男を、黒人が白人を差別するという事例を知る回数が少ないようにも感じています。

 

 

なぜ差別のイメージが限定的なのか?

 

 

このような事態に関して、私なりに仮説を立ててみました。

まず歴史的に見ると、女性や黒人が差別を受けてきたため、全世界でそういった差別をなくそうという動きが出てきました。しかし、もちろんそれだけでは差別がなくなるはずはなく、水面下で差別は継続的に行われてきました。そういった社会問題に対して、女性や黒人は大々的に批判するようになります。しかし、水面下で差別を受けていた男性や白人もゼロではないでしょう。そこで大々的に批判ができなかったのは、差別、つまり、壁をなくしていこうという世界の流れから真っ向から反対するからだと考えています。男女差別でいうと、女性が差別批判をする中、男性が批判するとより断絶が生まれてしまいます。それゆえ、一般的に差別をする側だった男性は、何も反対することができず、受け入れるしかない流れだったのではないかと推測します。これは行き過ぎると逆転現象が起き、新たな差別が生まれるのではないかと思ってしまいます。

 

最近の行き過ぎた印象

 

 

大晦日の某番組の演出で、人種差別や男女差別が取り上げられていますが、もちろんテレビ側も差別を意図した演出をしたわけではないと思し、その部分だけを切り取って大々的に批判するのは、少し敏感かつ過激すぎるのかなーと感じています。どうもここ最近の流れを見ると、これまでの歴史と「差別反対」という名目を盾に、新たな断絶を生み出すの種を蒔いているように思えてしまう今日この頃です。

 

 

以上